キッペスの教え

Waldemar Kippes

ドイツ生まれ 司祭 ロヨラ大学(シカゴ)文学博士
臨床パストラルケア教育研修センター 所長
上智大学、南山大学、聖アントニオ神学院等 講師歴任

学生の頃、 「人間学」 というものがあった。

人間学って何するの?って感じだが、私のクラスでは上のキッペスという教授(神父)がこの授業の担任だった。授業がはじまったらすぐに部屋の鍵を閉めるから遅刻できない。授業は午前中だったが、12時に教会の鐘が鳴ると 「祈りましょう」 と、どんな場合でも授業を中断して祈る。

人間学なのに 「必修」 ということは、落とすと卒業できないということだ。こんな厳しい授業を落として2年続けてやりたくない、と、みんな出席だけはしていた。

キッペス自身もイヤな奴だった。が、あるときキッペスが 「私たちはドロボウも責めることはできない」 と言った。
私は 「えっ、なぜ神父のくせにそんなこと言うのか?悪いことしてなぜ許せるのか!?」 と心の中でつぶやいた。
キッペスは云う、

「もし私たちがドロボウと同じ環境で育ったら、 同じことをしていたかもしれない。」

私には目からウロコだった。「罪を憎んで人を憎まず」 ということだろう。これは非常に簡単な言葉だがこの言葉の意味は逆に言うとキッペスが説明した通りということだ。

テロリストはテロリストになった背景がある。人間誰しもテロリストや犯罪者として生まれてきたわけではない。犯罪を犯すようになったのは育ってきた環境によるところが大きい。または、そうでなければ脳に障がいを負って生まれてきてしまったということだと考えている。これはこれで育つ環境とは別の問題で、考えなければいけない点は山ほどある。

私もテロリストと全く同じ環境で育ったら今頃テロリストになっていたかも知れない───学生の頃、あんなに嫌いだったキッペスの教えは、今でも私の心に刻み込まれている。

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Posted on 2004-04-17 by yas |