認められる 「自分」 がありますか?

日曜日の人生設計 (39) 橘玲 (たちばなあきら)
―もうひとつの幸福のルール―

日経2003/11/23(日) より無断転載

 大学の図書館で奇怪な哲学用語に満ちた分厚い本を手にしたことがある。暗号の如きその書物はほとんど理解不能だったが、「人は常に他者の承認を求めて生きている」と述べたくだりはなぜか記憶に残った。

 それから十年後、バブルの最盛期に出会った地上げ師は「あんたもダニやウジ虫以下の人間になればカネし
かないとわかるさ」と言って、夜ごと銀座の高級クラブで花咲爺さんのように一万円札をばら撒いていた。彼は薪の代わりに暖炉にくべるほどの札束を持ち歩いていたが、大して幸福そうには見えなかった。その時ようやくヘーゲルの言葉が理解できた。彼はカネで買えるすべてのものを持っていたが、他者の承認だけは得られなかった。風俗業や高利貸しを濡れ手に粟の商売だと批判する人がいる。だが、参入障壁が低く、利益率の高い商売が目の前にあるのなら、悪口を言うより自分で経営した方がずっといい。優秀な企業家は成功を手にし、業界が健全化すれば消費者にも利益をもたらすだろう。

 儲かる商売に参入者が少ないのは、それが他者の承認が得られない汚れ仕事と見なされているからだ。欲望という底なし需要に対して供給が限られれば、当然そこに超過利潤が生まれる。違法だから儲かるのではなく、その背後には経済的な必然がある。

 他者の承認を得る最も簡単で確実な方法は、自分の価値観を他者と同じにすることだ。女子高生の間で流行したルーズソックスのように、成熟した大衆社会では、人々は他人が望むものを手に入れようと行動する。不格好な靴下は、マイホームやマイカーや学歴や肩書きなど、私達の価値があるとされるどんなものにも置き換えられる。そこでの個性とは、傍からみればどうでもいいような微細な差異を競うことだ。

 ヘーゲルは国家という共同体から承認を得ることで人は幸福になれると説いた。ブランドの魅力は価値観を共有する世界規模の消費共同体に参加できることにある。携帯電話の出会い系サイトが人気を博するのは、実生活では望み得ない承認を仮想空間の共同体が与えてくれるからだろう。忠誠の対象は違っても、誰かに認められたいという人間の行動は変わらない。

 ところで、あなたの欲望が他人の欲望であり、あなたの幸福が他人の幸福であるとすれば、あなたはいったいどこにいるのだろう?

 豊かな社会では「自分探し」の旅が流行するが、大抵の場合、探すべき自分は最初から存在しない。

 人は誰からも承認されない人生に耐えることはできない。一方で、他人の欲望を生きる人生は破綻を免れないだろう。大衆の欲望は無際限で、渇きは永遠に癒されない。幸福のかたちを見失う理由は、たぶんここにある。

  このコラムは、「ゴミ投資家シリーズ」の作者のひとりである橘氏が日経日曜版に連載しているものである。毎回、内容は非常に示唆的である。私は注目すべき記事が日経に載っていると切り抜いて保存しているのだがこのコラムの切り抜き率は非常に高いと思う。

  今日 (2003/11/23)、自腹※で TOEIC を受けてきたが、その行為も彼の言う承認を求める自分があるのでは、と思った。いや、まさにその通り。

  ※…会社では、年 2 回社内で TOEIC がある。

  私からいうと 「受けさせてくれる」。以前は 「受けさせられる」 だったが、今は個人で受けると 1 回の受験料は 6,615 円だということを深く認識しているので、「受けさせてくれる」 という意識である。

追記:

後にこの内容は、橘玲著「雨の降る日曜は幸福について考えよう」(幻冬舎刊、2004年、pp.148-150)に載った。

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