海外で少しでも暮らしてみれば、自分は何者かということを常に考えさせられる。今住んでいるアメリカを例に取ると
「お前は何者なんだ?」
ということが常に問い詰められる。
男なのか、女なのか(しゃれじゃなく、こっちの国には同性愛者はフツーに街を歩いているから)、どこの国の出身で、肌の色、目の色は何色で、髪の毛は何色なのか。何が得意なのか?何ができるのか?(できないことは問われない。できないことを人にやれといっても、そもそもできないものはできないから。)
以前、通っている短大の ESL の授業で「自分の国について」のプレゼンが課題としてあった。これはアイデンティティをはっきりさせないと人に説明することができない。海外に住むということは国籍を捨てることを意味しない。ただでさえガイジンはアジア人の細かい区別がつかないのに、パスポート上、国籍まで破棄してしまったらどうなるのだろう?そこまで私は割り切れない。
アメリカに住むのとアメリカの国籍取ったところで選挙できるとか陪審員の招集礼状が来る(アメリカ国民でないのに私のところにもランダムに選ばれた召集が以前来た)とか、メリットないし、日本人という生まれ持った事実は変えようがない。私個人は、「日本が嫌いだから、海外に住みたい」と単に現実逃避するものでもない。できれば日本に住みたい。
米国の場合は、まずは外面から。それは見てすぐわかるので、アイデンティティを構成する要素の重み付けとしては軽いと思う。
よって、内面=能力もかなり重視される。少なくとも、私は重視する。「外見だけでは人は何者か判断がつかない」とは日本に住んでいてもよくいわれることではあるが、アメリカに住んでいる場合はまったくもってその通りとなる。外見はまさに十人十色で、まったく判断がつかないから。エンジニアであれば、日本にはないほど詳細に能力を評価する尺度が細分化されていて、それに給料が連動している。「根回し能力」が重視される日本企業に比べてある意味フェアだと思う。
日本に住んでいる場合は、日本はほぼ単一民族に等しいし、外見的な特徴である目の色、肌の色、髪の毛の色、身長などは米国の多人種社会からみたら大差ないので、日本人は髪の毛を染めたり、ファッションで差異化するのだと思う。
特に若い人の場合は、能力が未熟である場合が多いので、アイデンティティのよりどころを外見に求めるのだと思う。渋谷のヤマンバ(私がこないだ日本に帰ったとき(2006/04)にもまだいた)に代表される、バカそうな若いねーちゃんが日焼けサロンに行ったり、ほかにもブランド品のバッグを持ちたがるのは、そういうことだ。
これは実際にあった話で、こちら(アメリカ)で髪の毛を茶髪にしようとしたら「おまえは目の色も眉毛も黒いから茶髪はおかしい、白髪染めならもっと黒いのにしろ」と言われたことがある。
米国では、弱肉強食社会が徹底して、身分相応にふさわしくないブランド品を持っていたり高級なクルマに乗っているということは、まずないと考えられる。アイデンティティの面からいって、外見はすぐに見透かされてしまうからだ。そんなことをするとかえってマイナスで、それよりも自分の能力を向上させることが、「自分とは何ぞや?」つまり、「アイデンティティとは?」の回答になると思う。