1992年、ISID(電通国際情報サービス)の就職試験で女性社員が話していたのを聞いて。
(私はこの会社は、試験で落ちました。)
Waldemar Kippes
ドイツ生まれ 司祭 ロヨラ大学(シカゴ)文学博士
臨床パストラルケア教育研修センター 所長
上智大学、南山大学、聖アントニオ神学院等 講師歴任
学生の頃、 「人間学」 というものがあった。
人間学って何するの?って感じだが、私のクラスでは上のキッペスという教授(神父)がこの授業の担任だった。授業がはじまったらすぐに部屋の鍵を閉めるから遅刻できない。授業は午前中だったが、12時に教会の鐘が鳴ると 「祈りましょう」 と、どんな場合でも授業を中断して祈る。
人間学なのに 「必修」 ということは、落とすと卒業できないということだ。こんな厳しい授業を落として2年続けてやりたくない、と、みんな出席だけはしていた。
キッペス自身もイヤな奴だった。が、あるときキッペスが 「私たちはドロボウも責めることはできない」 と言った。
私は 「えっ、なぜ神父のくせにそんなこと言うのか?悪いことしてなぜ許せるのか!?」 と心の中でつぶやいた。
キッペスは云う、
私には目からウロコだった。「罪を憎んで人を憎まず」 ということだろう。これは非常に簡単な言葉だがこの言葉の意味は逆に言うとキッペスが説明した通りということだ。
テロリストはテロリストになった背景がある。人間誰しもテロリストや犯罪者として生まれてきたわけではない。犯罪を犯すようになったのは育ってきた環境によるところが大きい。または、そうでなければ脳に障がいを負って生まれてきてしまったということだと考えている。これはこれで育つ環境とは別の問題で、考えなければいけない点は山ほどある。
私もテロリストと全く同じ環境で育ったら今頃テロリストになっていたかも知れない───学生の頃、あんなに嫌いだったキッペスの教えは、今でも私の心に刻み込まれている。
日曜日の人生設計(最終回) 橘玲(たちばなはじめ)
―もうひとつの幸福のルール―
日経 2003/11/30(日) より無断転載
(前略、中略)
幸福のかたちに諸説あっても、「自由」が幸福の条件であることに異論のある人はいないだろう。奴隷が幸福
になれないのは自由を奪われているからだ。私達は自分自身の支配者であり、誰もその権利を侵すことはできない。
ヒトは一匹の動物として生まれ、成長し、老い、死んでいく。この世に生を受ける前に親や社会を選ぶことは
できない。ほとんどの日本人は、莫大な財政赤字を抱え、少子高齢化に苦しむこの国とともに二十一世紀初頭を生きていくことになるだろう。そう考えれば、人生の大半は運命と呼ぶほかないものによって、あらかじめ決めら
れている。だからこそ私達は、残されたわずかな自由を大切に生きるのだ。
私はこれまで繰り返し同じことを述べてきた。
人生を経済的側面から語るなら、その目的は何ものにも依存せずに自分と家族の生活を守ることのできる経済的独立を達成することにある。
自由とは人生に複数の選択肢を持つことだ。国家であれ会社であれ、経済的に第三者に依存し、そこにしがみ
つくしか生きる術がないのなら、新たな一歩は永遠に踏み出せないだろう。
独立のために一定量の貨幣が必要なら、与えられた資源を有効活用し、最短距離で目標に到達することで人生はより豊かになる。経済合理的に生きる意味はここにある---。
自由や富が幸福な人生を約束する訳ではない。それは未知の世界を旅する通行証のようなものではないだろうか。いつの日かその扉をあけてみたいと、私はずっと夢見てきた。
「ゴミ投資家シリーズ」の一連の本の中で書かれている、一貫した主張である。
ところで、今年もめげずに国際人材公募に応募して 1次面接は通ったものの、「遅くとも月曜日までに知らせる」
という、先週末に受けた取締役との最終面接の結果がまだ来ない。受かると 1年アメリカに行けるキップを手に入れられるだけにそう簡単には決まらないのだろうが、上のエッセイを読みながら自分のしていることは何か、自問自答するのである。
日曜日の人生設計 (39) 橘玲 (たちばなあきら)
―もうひとつの幸福のルール―
日経2003/11/23(日) より無断転載
大学の図書館で奇怪な哲学用語に満ちた分厚い本を手にしたことがある。暗号の如きその書物はほとんど理解不能だったが、「人は常に他者の承認を求めて生きている」と述べたくだりはなぜか記憶に残った。
それから十年後、バブルの最盛期に出会った地上げ師は「あんたもダニやウジ虫以下の人間になればカネし
かないとわかるさ」と言って、夜ごと銀座の高級クラブで花咲爺さんのように一万円札をばら撒いていた。彼は薪の代わりに暖炉にくべるほどの札束を持ち歩いていたが、大して幸福そうには見えなかった。その時ようやくヘーゲルの言葉が理解できた。彼はカネで買えるすべてのものを持っていたが、他者の承認だけは得られなかった。風俗業や高利貸しを濡れ手に粟の商売だと批判する人がいる。だが、参入障壁が低く、利益率の高い商売が目の前にあるのなら、悪口を言うより自分で経営した方がずっといい。優秀な企業家は成功を手にし、業界が健全化すれば消費者にも利益をもたらすだろう。
儲かる商売に参入者が少ないのは、それが他者の承認が得られない汚れ仕事と見なされているからだ。欲望という底なし需要に対して供給が限られれば、当然そこに超過利潤が生まれる。違法だから儲かるのではなく、その背後には経済的な必然がある。
他者の承認を得る最も簡単で確実な方法は、自分の価値観を他者と同じにすることだ。女子高生の間で流行したルーズソックスのように、成熟した大衆社会では、人々は他人が望むものを手に入れようと行動する。不格好な靴下は、マイホームやマイカーや学歴や肩書きなど、私達の価値があるとされるどんなものにも置き換えられる。そこでの個性とは、傍からみればどうでもいいような微細な差異を競うことだ。
ヘーゲルは国家という共同体から承認を得ることで人は幸福になれると説いた。ブランドの魅力は価値観を共有する世界規模の消費共同体に参加できることにある。携帯電話の出会い系サイトが人気を博するのは、実生活では望み得ない承認を仮想空間の共同体が与えてくれるからだろう。忠誠の対象は違っても、誰かに認められたいという人間の行動は変わらない。
ところで、あなたの欲望が他人の欲望であり、あなたの幸福が他人の幸福であるとすれば、あなたはいったいどこにいるのだろう?
豊かな社会では「自分探し」の旅が流行するが、大抵の場合、探すべき自分は最初から存在しない。
人は誰からも承認されない人生に耐えることはできない。一方で、他人の欲望を生きる人生は破綻を免れないだろう。大衆の欲望は無際限で、渇きは永遠に癒されない。幸福のかたちを見失う理由は、たぶんここにある。
このコラムは、「ゴミ投資家シリーズ」の作者のひとりである橘氏が日経日曜版に連載しているものである。毎回、内容は非常に示唆的である。私は注目すべき記事が日経に載っていると切り抜いて保存しているのだがこのコラムの切り抜き率は非常に高いと思う。
今日 (2003/11/23)、自腹※で TOEIC を受けてきたが、その行為も彼の言う承認を求める自分があるのでは、と思った。いや、まさにその通り。
※…会社では、年 2 回社内で TOEIC がある。
私からいうと 「受けさせてくれる」。以前は 「受けさせられる」 だったが、今は個人で受けると 1 回の受験料は 6,615 円だということを深く認識しているので、「受けさせてくれる」 という意識である。
2003/10/20 ZDNet より。
しかし、ITの歴史の中では 「best」 のテクノロジーが生き残ってきたとは限らない。
「best」 テクノロジーの最大の敵は 「good enough」 なテクノロジーなのである。